ゆとり、ドイツ6年目。

ドイツで美大生してるゆとり世代ですハロー

dreams





去年11月にDavidと別れ話をして
久しぶりにすんごい落ち込んだ。

10年前からたまに使う恋愛の悩み専用の日記帳を開いたら
出会った、惹かれあった、嬉しい、別れた、しんどい、
が何度も繰り返されていて、なんだまた繰り返してるだけか
なんで私はいっつもこんなエネルギーを恋愛に費やしているんだろう…
暇なんだろうか…ワッツ・ザ・ポイント…ワッツ・ザ・ポイント・オブ・ライフ…

って考えながら、リンクに貼った作品 with/out を作り始めた。

生きる理由とか価値とかを考えるときは、いつもふたつのことが自分の真ん中にくる。

一つは、新卒で働き出したときに友人がこぼした
生きたくも死にたくもない、だから生きてる
って言葉。

もう一つは、20年前に他界した重度の障がいを持っていた兄の存在。

生きる理由や価値を見つけたい、
だから人生で何かを成し遂げるとか意味のあるものにしたいって気持ちと、
何を成し遂げなくたっていい、生まれたただそれだけ
プラスでもマイナスでもなくて生きるってことがあるだけ
って思わせてくれる兄の存在が、矛盾しながら共鳴しながら顔を出す。


まだ作品を作り途中だった2月に、クラスの同級生がパリで突然死した。
生きることと死がテーマのこの作品を、その状態のクラスメートたちに見せることは憚られて、
それでも、作品を作り続けたくて、講評をしてもらうために、別のクラスで作品を見せた。
ポジティブなフィードバックを沢山もらえたものの、
動画の途中で席を立った人がいたことが気にかかっていたら、
後日彼女から個人的にメッセージがきた

動画の途中で席を立ってごめんね。
最近母が他界したばかりで、見てるのが辛くなっちゃって…


この作品は、見せる相手の状況を関与しなきゃいけないものだなあ
ってつくづく思わされて、申し訳なくなって、そのことが悲しくなって、
次回作はとってもポップな見せる相手を選ばないものにしよう!と決意。

うさぎの人形がiPadを抱えている立体作品、dreams を作り始めました。
(iPadに映像作品がループで流れます)


dreams


おかあさんといっしょを観ながらあ・い・うーを無心で歌って踊っていたこと、
ピンク色のうさぎに、セーラームーンに、青い目の男の子になりたかったこと。
小さい頃の夢や熱狂は、自分が本当に求めていたというよりも
社会や大人に与えられていた価値観を素直に受け取ってなぞっていただけなような
でもそれでも、本当に夢中で楽しくて嬉しかった気持ちは自分のものとして感覚で残っていて。

作品を作り始めた時は、
子供の意志に影響を与える社会からの一方的な価値観への疑問的な
ポリティカルなものにしようと目論んでいたんだけれど、
あ・い・うーの動画を見つけてひっさしぶりに一緒に歌って踊ってみたら
笑えてきちゃって、楽しくて、でもなんかグッとくるものもあって、
社会に押し付けられた価値観だったとしても、それでも過去の夢が愛おしく思えて、
本当に大きくなっちゃったなあって、みんな大きくなったねって、
そういう作品を作りたいなという気持ちになりました。

今までドイツで日本の日常を思い出すような作品を作るときは
日本を離れた時に持っていた、生きたくもないけど死にたくもない
というブルーな気持ちが強く出てきて、
どうもネガティブな文脈になってしまっていたんだけれど、
今回は作りながら、むしろとても明るい気持ちになっていて
みんなの日常を垣間見えるのが純粋に嬉しくて
みんなおっきくなったね、生きてるね、生きてこうねって気持ちで
みんなとコンタクトを取れることがとても嬉しくて。




私と同世代の、あ・い・うーで育ったみんなが、
大人になった今、日常を過ごしながら
ままぱぱ こんなに大きくなっちゃった いいないいな なれたらいいな
って歌っている動画を集めています。

本人が歌って踊っているのでも、一人でも、誰かと一緒でも
本人が写っていない景色でも、ご飯でも、仕事中でも、
室内でも室外でも、電車の中でも、
みんなの今の日常が垣間見えるものなら、なんでも喜びます。

携帯で、縦長で撮っていただけると尚嬉しいです。
6月15日から展示が始まるので、
6月6日までに送っていただきたいです。
展示はドイツのミュンスター美大、年に一度の大展示
一万人くらいの人が来場するみたいです。

ご検討、撮影、ご連絡、どうぞよろしくお願いします。



悪意の内側の外側


年に一度の巨大学内展示の実行委員になってみたら
グループ内の意見もスピードも合わずに募るイライラ
そのフラストレーションを全面に出してコミュニケートしていたら
一人、二人と実行委員を抜ける人たちがあらわれて
自尊心が相当痛んでいる。彼らを否定するためにイライラしていたわけじゃなくて
仕事のスピードを上げるために無意味な部分にイライラしていたら
それがゆっくりな彼らを攻撃することになって、
それをみていた信頼している人に指摘されて、傷ついてキレ返して、
でも時間がたって落ち着いてきたときに
あ、日本にいたときになりたくないと思っていた人間になっている
と気付かされてかなりへこんでいる。まだ画面でしか謝罪できていない。

外側には気づかれていなくて、みんな成し遂げた仕事を褒めてくれる。

誰かを置いてけぼりにして仕事を進めて
その成果がどうであれ過程が最悪なら気持ちのいいものじゃない
グループの状況の方が仕事内容よりずっとストレスで
無視できない泣きたいような気持ちが何週間も続いていて
フランス旅行を直前キャンセルして、家で椅子から転がり落ちて負傷
心身ともにボロボロである。坂本さん死んじゃったよ。

今日は何をする元気も出なくて1日ハンターハンターを読んだ。
いっぱい人が死んで嫌な気持ちになりながらも読み続けた。
ゴンの真っ直ぐな目が羨ましい。

小学生や小さい子供たちと時間を過ごすときは相手の興味も
スピードも意見も気持ちもなんでも真っ直ぐ受け止めて大事にできるのに
同世代相手だとそんな気になれない残酷な人間になってしまう。
そしてそれはすっごく非効率だ。効率的にやるためなのに。
わかってるのにイライライライラしてしまう。

世界がちっちゃくちっちゃくなっていっている。
気持ちがちっちゃくなっててるから。窮屈なオーラを纏っている。
面と向かってごめんなさいを言わなくちゃだ。

咳ジュース


部屋の壁に生えた二度目のカビたちのせいか、
先週から研修に行っている小学校で生徒たちからうつされたせいか、
歯の神経痛のせいか、パリでレジデンスをしている大学のクラスメイトの突然の訃報のせいか、
ここのところ咳がいっこうに止まってくれずキッチンで咳き込みながら不調を嘆いていたら、
同居人のアレクサから "Husten Saft!"と咳ジュース(直訳)が処方された。

風邪シロップっていうのかな?ちっちゃい頃、親に似たようなものを飲まされた気がする。
私だけの言語感覚かもしれないけれど、
Hustenはなんか乾燥したごほごほのイガイガの部分を連想させられて
咳は痰とか唾がセットに頭に浮かんできて、咳ジュース、唾とか痰とか混ぜ込んだジュースみたいで、
そんなの絶対飲みたくないわって思うけれど、
Husten Saftは乾燥してイガイガした喉に潤いを与えるジュース!
って感じで違和感も抵抗感も湧いてこない。1日3回、45ml。昨日から飲み始めた。


最近開く頻度が増えたDiscordでドイツ語と日本語の二重生活をしている。
Discordはかつて一世を風靡したmixiにあったコミュニティみたいな感じで、
いくつでもグループに参加できるプラットフォームになっている。
私は2つのグループに参加してて、片方のグループはドイツ語のみ、もう一つは日本語のみで、
グループをスイッチすると、同じプラットフォームなのに空気感が全く違くて
土地じゃなくて言語が文化圏を作っているというか、文化の土台なんじゃないのかと思えてしまう。
インターネット上のコミュニケーションでは土地性や物質性が排除されるから、この感覚になったのかもしれない。

二つの世界をクリック一つで往復できるのはなんかすごい楽しい。
日本語とアルファベットは形もバランスも違うから、目に見えて一瞬で違う世界で面白い。
ドイツ語の方では現在の話ばかりしていて、日本語の方では過去の話をしがちで
日本語を今も日常的には使うけれど、日本文化圏での生活は過去になってきているんだなと実感する。
2017年の4月からドイツだから、もうすぐ満6年か、小学校卒業か。

久しぶりにブログ開始当初の記事を読み返してみたら、
今より日本語の流れも内容も心地よくて興味深くて、
年を重ねるってレベルアップってことじゃないんだなあと実感。
くうぅ。

おひさしぶり

今更ですが、あけましておめでとうございます。

頭で考えてノートにメモして先延ばしにしてた手紙を書いてってしてたら、ブログに文章を書く欲求がなかなかこず、あら、はやい、もう2月。

去年の年越しは、パフォーマンス、インスタレーション、ビデオ作品と活躍してるアーティストのSoyaさんのところにお邪魔して、ドイツに越してから初のしっかり日本食で年越し。お家にお邪魔するのは初めてだったのに、向かっている途中、手作りの美味しいご飯が待ってるっている状況が嬉しくて、妙に実家に帰る心持ちになって。家族みたいなダービッドと一緒に、おでんやなめこ蕎麦を堪能させていただきました。

ご飯を作って食べるって幸せよね。あと編み物も楽しい。

作品作りは進んでるようで進んでなくて、納得いく方向だと思った作品が、仕事やら風邪やらで時間が空いて続きをやっと作ろうとアトリエに向かった1週間後には無意味なものに見えて、を繰り返している。一気に作らなきゃなんだろうなそもそも。鉄は熱いうちに。味噌汁もお茶も熱いうちに飲みたいしね。最近毎日作ってる茶碗蒸しも熱いうちが1番美味しい。

2022年の感想を聞いたら、Soyaさんはいろんなところで展示、舞台と手応えのあった一年みたいで、聞き返された時に、自分の一年なんも手応えがなかったような感じがして、やだな2023年は充実させたいなって、お腹がふつふつ、した。

作品作る!もっと作る!集中する!
せっかくケレンが教授になって、アーノルトのクラスでゲストもしてるから、全身で作って見て聞いて学んでいく!

今週の木曜日からは、ずっと潜り込みたかった小学校での5週間の研修がはじまる。のが、すごく楽しみ。科目ごとの授業じゃなくて、プロジェクトっていう大きな枠組みで学びを構成しているらしい。ふた学年混じってる25人くらいの子供たちに大人が4人。どんな日々なんだろう。研修生というポジションで、どう子どもと
関わることになるのかな。

喉の痛みと咳と歯の痛みが明後日までに落ち着きますように…!

いっしゅう間


自分の時間が増えた。大学の同級生に本を貸す約束をして
家にある日本語の本を整理していたら再読したくなって、また本を読み始めた。
マルキドサドさんとマゾッホさんの存在を教えてもらった。
文学がマゾとサドの概念を作って、キットカットのキンキーパーティーに繋がってる。
文字の世界と体感の世界は全く違う分脈に思えるのに、
ちゃんと同じ世界で起きていることで、影響しあってるらしい。

今日は久しぶりに西加奈子の漁港の肉子ちゃんを読んだ。
半年前くらいに再読した時は暑苦しく感じて読み進められなかったんだけれど、
現在の自分とちょうどあっていたみたいで、今回はすごく楽しめた。
いっぱい笑った。最後は泣いた。んで、また笑った。
窪美澄の、ふがいない僕は空を見たと、
茨城のり子の、詩のこころを読むと、
西加奈子の、漁港の肉子ちゃん
この三冊があれば、なんとか立って暮らしていける。

漢字を書くことは苦手だけれども、日本語が好きだ。

こっちで暮らし初めてもう6年目になるみたいで
そのおかげで親しい友人も増えてきて、
自分の頭の中でその友人に話しかけるときには日本語を使っていて
少し考えた後、あ、え、そうだ彼らは日本語を話さないんだったと
ハッとする、ということがときどき起こる。
ドイツ語での意思疎通がストレスで頭痛なんてことは流石に無くなったけれど
胸の真ん中の辺りに溜まって動いて留まっている気持ちに一番近い形は
やっぱり日本語なんだなあと感じる。

熱烈アピールで私の新しい教授になってもらった
Keren Cytter は英語で作品を作る。映像も作れば本も書く。


Keren Cytter, Der Spiegel, 2007 from Noga Gallery of Contemporary Art on Vimeo.



ドイツ語すらちょこちょこ使う。
イスラエル出身の彼女の母国語はヘブライ語。
英語はオランダ留学時代に使い始めたらしい。

英語は彼女の作品の武器で、ぐおんがおんと使いこなしている様子は見事で
てっきり家族とも英語で話しているのだと思い込んでいたから、
母国語はヘブライ語だと言われた時は驚いた。

どうやってそのレベルに…ってありきたりな質問をしたら
そうするしかなかったからだよ、
今、私たち、雨の中ずぶ濡れになって駅まで歩いてるけど
それと一緒。苦しくてもその真っ只中にいたら続けるしかないじゃん。
って。

私は彼女の英語が好きだ。

苦手意識が先立って、言葉を中心に置いた作品を作ることをためらってきたけれど
好きの勢いで馬鹿正直に作ってみるのもいいのかもしれない。
日本語でも、英語でも、ドイツ語でも。